時は江戸時代中頃の宝暦2年(1752年)挙母城主内藤丹波守政苗治政下で、築城並びに藩財政増収策の重圧が領内村々にかかり、苦渋の極に置かれた。挙母領村々の代表者飯野八兵衛をはじめ多くの村人が江戸屋敷に向かい税貢租軽減を訴え、苦情が認められ実現をみた。しかし、直訴は大罪で代表者6名が村々の苦難を一身に受け、挙母城で刑場の露と消えた。四郷村からは、小栗紋右衛門、山田林右衛門両名が尊い犠牲となった。安永8年(1779年)27回忌法要に際して雲龍寺境内に供養塔が建立された。現在も、四郷区によって毎年5月に供養が行われている。

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