物のはじまり

この地区の出土品から推測すると、今から1万6千年ほど前の石製の刃物が、上原の丘で見つかっており、地区内でも御船の大釜などで、槍に使われた石器や細石器が出土している。双方とも縄文時代より古い時期に、郷土の祖先が生活した足跡が見られる。

記録のはじまり

猿投神社に伝わる文書の一つに、元旦から年末まで一年を通し、祭事を記した祭礼記がある。それによると、室町時代の貞和5年(1349)に御船と四郷の名が記録されている。御船は、久安4年(1148)平安時代の終わり頃、御船郷司が猿投神社で写経を始めたとある。四郷は、貞和5年(1349)猿投神社の社殿修理のため、亀首郷と並んで米2斗寄進したとある。

江戸時代の村

江戸幕府が樹立された1600年頃、四郷村は9百〜千石で内藤氏の挙母領となり、御船村は5百石ほどで本多氏の足助領となるなど、いくつかの旗本知行所に分けられていた。両村とも江戸時代は名古屋と飯田方面を結ぶ信濃道(後の飯田街道)が通過しており、中馬の道とも呼ばれ、馬の背に荷物を載せた人馬が行き交う交通の要所であった。これらの大通りを通称大還と呼んだ。文化8年(1811)3月25日には、幕府の命を受けた地図測量の伊能忠敬が四郷村に宿泊し、翌日には猿投神社まで測量を実施したと記録がある。 

明治時代の村

明冶22年(1889)四郷村、御船村をはじめ近隣の越戸村、花本村、荒井村等が合併し上郷村となり、花本に役場が置かれた。その後、明冶39年(1906)に、上郷村と猿投地区の広沢村が合併、猿投村となり、現在支所のある四郷町東畑に役場が置かれ、昭和42年豊田市と合併するまで続いた。



猿投村道路元標


猿投支所の西側にあり、石製で「猿投村道路元標」と記述がある。村役場の前に必ず建てられ、市町村間の道路原点として各地を往来する人々の目標であった。この道路元標は、猿投村が発足した明治39年以降に建立されたと思われる。